僕がしばしば世話になっている本山のベルギービールバー・レンベークでは、各種のビールに合わせて専用のグラスをずらりとコレクションしている。
客に供される際には、そのビールや醸造所の名が刻まれたグラスが逐一用いられる。
見目に美しく、心にもうれしい、実に気の利いたサービスだ。

一方で、供されるグラスによって酒の味わいが変わる、といった類の言説を自分は信じていない。
グラスの淵が薄いと味のキレがよく云々、グラスのくびれに香気成分が滞留し云々、というような話は枚挙に暇がなく、必ずしも出鱈目と断ずるのも憚られるのだが、色々と試してみた結果、少なくとも自分には意味のある差を感じられなかった。
上に述べたサービスも、食味の向上というよりは文化的・教養的うれしさの意味合いが強い。
自分は頻繁にビールを飲む。
はじめは精神統一の境地で極限の集中を以て味わっていたビールも、日常の一環となりそこまでの集中力を喚起しなくなった。
思えば、自分はもはやビールの味の期待(expectation)にわりあい成功するようになっている。
予想を外される見込みが少ないゆえ、驚きが持続しない。
集中力を保つのが難しい。
そこで今回は、ティーカップにビールを注いで飲んでみようと思う。
ティーカップに本来注がれる液体に期待される味わいからすると、今回飲むビール、シメイ・レッドの味わいは常軌を逸しているはずだ。

ここで、ティーカップは換喩的に内容物たる液体に関する期待を背負う。
土鍋の中にカルボナーラ。
ツナ缶の中に釘。
そういったディペイズマンを齎してくれることを願う。

実にレーズン様の豊潤な味わいと、爽やかに弾ける炭酸。
紅茶を期待したことで、炭酸の爽やかさが改めて際立つ。
明確なタンニンの渋み。
キリリと締まる冷えた液体。
期待通りの驚きを得ることができた。
しかし、この驚きは期待済みである。
大人になるということは、この種の絶望を何度となく経験することに他ならないのだろうか。
しかし、僕はこの度、本当に心の底からこのシメイ・レッドに紅茶として向き合えてはいない。
何しろ自分で仕組んだ試みだ。
もしも仮に、このシメイ・レッドが紅茶であったなら、文字通りに紅茶の理を逸した味わいと評価されるはずだ。
そして、換喩的ティーカップから得られるところの「紅茶であることの期待(expectation)」は、この「紅茶の理」という認識上の事実から「紅茶」という重複した前提を奪う。
シメイ・レッドは、「紅茶の理を逸した」ではなく、「”理を”逸した」という形容句を恣にするだろう。
そして任意の事物どもは、どこまででも行ける。