2か月ほど前に恋人と破局してから、ずっと何か具合が悪い。
以前、私は「恋愛」と「友愛」とは何が違うのか考えていたことがあった。
思索の結果、その時は
「エロティシズム(=相手の主体性を破壊・支配したい欲求)が生じる好意が恋愛であり、相手の主体を尊重したいと願う好意は友愛である」
と一旦は結論付けたが、後にどうやら理に適っていないと思い直したことがある。
なぜなら、まず上記の感覚は多分に男性的(というより、リビドーの強い人間に特有)過ぎるきらいがあるらしいと知り、また友人であっても支配欲が生じる場合もあれば、恋人であっても生じない場合もあるのではないかと思ったからである。
①驚
元恋人との関係は6年以上に及んだ。
その間、確かに自分は相手の主体性を破壊・支配したい欲求に駆られてはいた(駆られただけで、当然実行には移していない。これは文明人として至極当然のことであり、逆に実行はしないまでも感情のみ生じるということもまた動物として至極当然のことだ)。
しかし、交際期間が長くなるにつれ、そうした烈しい衝動は収まっていく。
関係はより安定的でリラックスしたものとなり、交感神経より副交感神経優位の間柄へと変ずる。
自分は、この過程を「恋→愛」という変遷なのだと理解した。
すなわち、
「エロティシズム(=相手の主体性を破壊・支配したい欲求)が生じる好意」
である”恋”の状態から、
「相手の主体性をも包容・尊重する好意」
である”愛”という、より高次の関係性へ至ったのだ、と解釈した。
しかし、この考え方では「(恋人に対する)愛」と「(友人に対する)友愛」の区別が定義できていない。
(恋人への)愛も友愛も、共に「相手の主体を尊重したいと願う好意」だと仮定しているためである。
当時は結局この疑問に答えを見つけることができず、しかしそれでも生活上不便はないので、そこで考えるのを辞めてしまっていた。
しかし、先日そんな相思相”愛”の状態だったはずの恋人と破局してしまった。
そこで色々と振り返ってみると、自分の「恋愛」に対する理解が十全でなかったことに改めて気づき、ようやく多少満足のいく形で言語化することができた。
②解
結論から言うと、恋とは
「宗教的信仰心(=絶対的期待)を含む好意」
であり、愛とは
「恋の状態から諦観を経て、宗教的信仰が解除されたにもかかわらず、未だ持ち続けている好意」
であり、これに対して破局とは
「恋の状態から諦観を経て、宗教的信仰が解除されたため、好意も解除された状態」
ではないか、と考えている。
ところで、どうしようもないことに、恐らくこの新しい考え方も何か根本的な不足というか、視点の欠落を含んでいる気がしてならない。
まずもって感情を言語化したにしては定義が理屈っぽ過ぎ、単なる集合論の話だけで、情緒的な機微が感じられないためである。
しかし、それはそれとして、今の自分の理解を今言葉にしたためておかねばならない。
まず私の話をすると、恋人と破局してから慢性的な憤懣・無気力感に襲われ続けている。
これは逆に捉えれば、これまで恋人と関係し続けることによって6年ものあいだやり場のない憤懣が帳消しになり、本来湧くはずのない気力が湧いていたとも言える。
恋人が心の支えだという感覚は多くの恋人関係に共通して言えることだと思うが、私もその例には漏れなかった。
絶対的理解者としての恋人という存在は強い精神的安寧をもたらすものだが、この存在感は古来からのいわゆる宗教に似ている。
「信じる者は報われる」という言葉の通り、神に救われる理由は”信じている”からに他ならない。
そして、信者から神への信仰心が一方通行であるのと同様に、恋心もあくまで一方的なものだ。
相手との相互契約ののち恋を開始することは構造上不可能で、恋もまた必ず一方的に開始される。
逆に言えば、好意が一方的である限りそれは愛たりえず、恋に過ぎないと考える。
ただし、神と恋人の大きく違う点は、その偶像たる肢体が現に目の前に存在し、両想いであれば互いに信仰を交換し合う契約関係の仲になれる点である。
あくまで注意してほしいのは、仮に両思いだとしても恋という関係が一方的であることに変わりはなく、あくまで互いに一方的な信仰を交換し合っているだけであるということだ。
それゆえ、恋人たちはしばしばお互いに不満を抱えて喧嘩したり、相手に対して過剰に気を遣うあまりストレスをため込んだりする。
さて、恋と宗教に共通する重要な要素として、相手に対する絶対的な期待を挙げたい。
宗教において、神を信じることに合理的理由は必要ない。
必要ないばかりか、そもそも宗教は神を信じることに端を発する世界観なので、神を信じることは前提条件であり、疑う価値のない公理である。
そうした絶対的な信仰心の上で、宗教者は神に対して何某かの期待(ご利益・死後の安寧・解脱・世界平和・etc)を持つことになる。
これと同様に、恋愛においても互いが互いに対して絶対的な期待を持つ。
その期待を抱く対象がなぜ相手でなければならないのか、世界のどこかにより適した人物がいるのではないか、などといった合理的な考察は、不要であるばかりか野暮だ。
「”その人に”期待したい」という信仰心は恋において大前提であり、絶対的なものではないだろうか。
そして本質的には、「その人」は(合理的には)誰でもよく、ただ偶然の巡り合わせや地理的・社会的環境によってその時々で抽選されるものだとすら言えるかも知れない(無論、そこにプラスして個人の趣味嗜好が影響を与えることは言うまでもないが)。
時には「その人」から突如として絶対性が剥奪されることもあり、そうした現象は俗に蛙化現象などと呼ばれる。
ところで、宗教における神は現実世界に存在することが不可能なため、蛙化現象や痴話喧嘩などといった問題は起きえない。
一方で、恋人は実在するために、自分が抱いていた理想的な絶対性が剥がれ落ちることは往々にしてある。
これが急激に意図せぬ形で訪れれば、相手に対して今まで絶対的に抱いていた信仰心は突如として消滅し、破局を迎えることになろう。
そもそも、恋という現象が一方的な信仰に端を発する以上、恋する対象の本体というのはあくまで仮想上の観念的存在、イデアである。
実在する1人の人間、動物個体としての物質的恋人は、その偶像に過ぎず、”恋人”の本質ではない。
恋人の本質は、あくまで恋する側の頭の中にあるイデアに宿っている。
これは歪な現実である。
少なくとも、人間2人がすれ違っているという意味で、健全なコミュニケーションではない。
こうした己の偶像崇拝をどのように自覚し、どのように受容できるかが、恋の先に破局を迎えるか愛を育むかを分けるのではないだろうか。
なお先に付言しておくと、恋と愛と破局との3状態はいずれもはっきりと峻別できるものではなく、ある程度グラデーションをなすものに思える。
我ながら何を言っているのかめちゃくちゃな気がしてきた。
端的に言えば、己の偶像崇拝に気づき、相手が自分の期待を一方的に叶える特権的な絶対性を有する存在ではないと理解した上で、それを受け入れて自分の一方的な期待を諦め、相互に対等なコミュニケーションを図ろうとする状態こそが愛なのではないだろうか。
この段階では、相手が有する特権的な絶対性は剥奪されており、したがって宗教性もない。
相手に対して不満も生じうるし、期待の全てが叶えられることも到底ない状態である。
そして、そんな状態に失望すると破局となる。
すなわち、己の偶像崇拝を受け入れられない・相手が自分の期待を叶えないことに堪えられない・といった事情で好意そのものが消滅すれば、破局となる。
私の事例では、私のずぼら過ぎるファッションや浮世離れした人生観・俗なものを好まない嗜好・などが元恋人にとっては我慢しがたく、諦め切れるものではなかったのだと思う。
象徴的なこととして、元恋人は私に破局を言い渡す直前まで、私との関係を前向きに捉えているかのように振舞っていた。
これはまさしく、上で話した「絶対的な期待」によるものであろう。
“神を信じ”ているまさにその瞬間は、ただ「神を信じているから」という理由で、なおも「神を信じよう」とする。
そこに合理性という価値基準は無縁だ。
そして、ついにあるとき神を信じなくなると、もはやこれ以上神を信じる動機は失われる。
ここへ来て初めて、「合理的に考えてこの人ではない」という価値観が舞い戻ることになる。
一方、僕が元恋人をどのように捉えていたか。
奇妙なことに、交際中は元恋人に対して一切の不満がなく、全く齟齬を感じていなかった。
ところが、いざ破局を目の前にしてはじめて、自分が恋人との間にたくさんの小さな不満やストレスを抱えていることに気づいた。
つまり、やはり私も同じ穴の狢で、相手に対して「絶対的な期待」を抱いていたと言える。
相手を絶対的・特権的な存在だと信じたかったからこそ、小さな不満が意識に上らない。
信者が神を疑うことはあってはならない。
それは原理上不自然なことだし、宗教という世界観の上では意味も価値もない行為だ。
一方で、自意識の上では”何の不満もない”状態でいられたことも事実だ。
つまり、おそらく私は元恋人の非絶対性を諦める(=愛する)ことができたのだと考えている。
ただ、この考え方では愛が単なる妥協と特に相違ないことになってしまい、些か身も蓋もない気がする。
いや、愛は単なる妥協なのだと思う、というのが今の自分の結論だ。
友愛は宗教性のない好意で、それゆえに”神の死”を受け入れるという超越的通過儀礼を経る必要もない。
一方で恋愛は宗教性を有する好意であるがゆえ、一旦与えられた宗教的絶対性が剥奪される瞬間には(空虚だが)意味が宿る。
そのようにして宗教性が剥奪された後に残る好意を愛と呼べば、その見てくれは確かに友愛と何ら変わりないが、そこに至るまでの物語が全く違うのだ。
それが友愛と愛との違いではなかろうか。