最近、美食ということをよく考えるようになった。実家を出て、経済的に多少の余裕もできつつあるこの頃、生来の吝嗇化だった自分が惜しげもなく金を使うものと言えば美食、とりわけ酒ということになっている。それ以外に金を使う趣味は殆どない。日々の食事は自炊で切り詰める一方、1本千円もするようなクラフトビールが冷蔵庫を埋めつくしていて、そいつを毎晩1本ずつ開けていくというのが僕の日常である。
正直、ここまで酒に入れ込むとは思っていなかった。上に挙げたのは最近飲んだビールの写真だが、自分はビール以外にも酒なら何でも飲む。学生時代には昼から家で赤玉パンチを何杯も飲みまくったし、大学でも飯を食いながらラボで飲んでいた。大学の冷蔵庫には日本酒を常備していた。こうした日常で、自分はアル中まっしぐらなのではないかと思ったが、意外にも飲むのをやめようと思えばピタリとやめることができた。
さて、先ほど美食の話をしたが、食と酒には美しく美味いという共通点がある一方、違う点もある。つまり、酒には中毒性があるということだ。食は生きるために必要な営みであり、毎日食ってもよほど中毒性というものは生じないが、酒は生きるために何ら必要なものではなく、毎日バカスカと摂取すれば中毒になる。中毒になると、いくら飲んでももっと飲みたくなる。つまり決して満たされない空腹感のようなものである。これは食事では中々起こりえないことだ。
最近、渇望ということもよく考えるようになった。子供の頃と今とで自分を比べたとき、最も大きな変化は渇望と諦念だと思っている。何も知らなければ何も欲しようがない。知れば知るだけ欲しくなり、それが手に入りようもない苦しみを受け入れる必要に迫られる。一欠片のチョコレート菓子すら御馳走だったあの頃に、僕は今戻る術を持っていない。あるのは素晴らしく美味いビールと、それを買える程度の財力と、無限に満たされることのない渇望だけである。
であれば、美食としての酒に向き合うためには、薬効としての酒の中毒性は排除しなくてはならない。渇くから飲むのではなく、美しいから飲むという動機付けをとりわけ意識する必要がある。でなければ真にビールと向き合ったことにはならない。自分の欲望を超克し、精神を一段階上の自由へと解き放った状態で、ビールを味わう。これは食でも同じことだ。空腹は至上のスパイスだとよく言われ、それは確かにその通りなのだが、美食の観点から言うとこの言葉は何の意味も持たない。美食の主体が食う側にあるのでは、目の前の食と向き合っているということにはならない。
したがって、真の意味でビールを味わい、その美しさに酔いしれるためには、酒を飲んでいる酩酊状態と、飲んでいない素面の状態とを全く等価のものとして体感し、自由かつ雰囲気的に行き来することが必要なのではないか。少なくとも僕はそう思った。身体を気遣ってとか、飲みたいのを我慢してとかではなく、ただ風や水の流れが変わるように、欲望や渇望から解き放たれた状態で酒の薬効を受け止める。ビールの味わい方を只管考えていたら、どういうわけか哲学的な思索に至ってしまった。それで今断酒2日目です。あと5日は断酒する予定です。