観点:「パーソナリティ」「アイデンティティ」

人の性格やアイデンティティはその人自身に由来するのかと思っていたが、そうではなく、他者との社会的かかわりの中で必然性もなく偶然に他者から複製されるものなのかも知れない。

①驚

今の生活が長すぎて忘れていたが、私はそもそも幼少期から他者の人間性を複製し、それを自分の内面に植え付けて同化させることで今の人間性を獲得したのであった。
元々の自分がどんな人間であったか………………

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覚えていない。
覚えていないというより、単に存在しないのである。
幼稚園の頃の私は、母親の情操教育により縞々虎の縞次郎をひたすら世の真善美の化身と認め、それ以外の価値基準は存在しなかった。
内向的で受動的な子供であり、好奇心こそ旺盛だったが人見知りで、自己愛が強く臆病な、典型的な子供だった。

小学6年生の頃、大町という悪友ができて彼から強い影響を受けた。
ここで今の私のパーソナリティの土台が築かれる。
中学高校では小田桐という友人ができ、きわめて鮮烈な影響を直接的に受けた。
自分のバーサーカー的な性格はここで初めて築かれたもので、それ以前の私は規範意識が強く、冒険心こそあったものの、決められたルールに真っ向から立ち向かっていくような性格ではなかった。
大学生になると、課外活動で知り合った尾崎という男からさらに影響を受ける。
自分が苦手としていた、大見得・大立ち回りといったソフィスト的な立ち居振る舞いを、彼の所作をそのままコピーして内面化することで身につけたのだ。

こうして私は、自分の人間性を形作る重要なファクターを常に他者から複製・内面化することで獲得してきた
このことに気づいたきっかけは、先日ある作曲家の方と話したことだ。
彼と話して以来、話す際のジェスチャーとして彼のものが完全に移ってしまった。
感情が入ると、ぐいと相手の方に身を乗り出し、両手を上に広げて相手の顔を下から覗き込みながら力説する。
この仕草が無意識に出るようになってしまったのである。

②解

こうして他者から獲得されたパーソナリティは、他者から獲得されたからと言って、しかし自分と全く切り離されたものではない。
なぜなら、誰からどんなパーソナリティを複製するかは当の本人に委ねられているためである。

たとえば私の例で言うと、私が他者から(半ば無意識に、半ば意識的に)複製したパーソナリティは、一貫して自分が持っていない、ゆえに憧れているパーソナリティであった。
具体的に言えば、外交的で威厳があり堂々としたパーソナリティである。
今の私をよく知る人は、私のことを外交的で威厳があり堂々とした人間だと思う人が多いと思う1が、本来の私は内向的で威厳がなく臆病な人間だ。
私がそうした本来の自分を嫌い、自分にない性格を強く求めたから、選択的にそのような人間性を複製して自分に内面化したのだ。

一方で、私にはこれが全き必然だとも思えない。
端的に言って、他者から直接的に複製してきたようなパーソナリティが最近怖くなってきた。
なぜなら、人生においてどんな人といつ出会うかは非常にランダム性を帯びているからだ。

私の実家がもう3軒隣に建っていれば、私の小学校区は1つずれていた。
もしそうであれば、私は学校で大町と出会わなかっただろう。
私が彼の薄暗く刺激的な人間性を内面化していなければ、私は縞々虎の縞次郎的価値観を捨て去る機会を持たないまま、素直に情操教育の成果を発揮して今頃は典型的な名古屋大学卒業生たるべきキャリアを歩んでいた可能性が高い2
同様に、人生の各フェーズでそれぞれの人物に出会ったのは純然たる偶然で、そうした偶然が無ければ今の私の人間性もない。
偶然によって人生が左右される、ということは往々にしてあるので不思議でも何でもないが、それが「パーソナリティ」という極めて内的なものにまで言えるとなると、薄っすら背筋が寒くなってくる。

とはいえ、パーソナリティのような抽象的なものならまだよい。
偶然出会った一個人に大きな打撃を与えられる可能性より、確率的にあらかじめ定まった部分へ収束する可能性が高いと考えられるからだ。
私の場合、上で挙げたような具体的な人物に仮に出会わなかったとしても、別の「外交的で威厳があり堂々とした人間」に出会っていれば似たような影響を受けて似たような人間性に育っていたかもしれない3

しかし、具体的で表面的なアイデンティティ、すなわち服装や所属するコミュニティ、趣味嗜好といったことでは話が変わる。
本当にその時偶然出会った一個人から直截な影響を受けることになる。
タバコを吸っている先輩がいなければタバコを吸い始めることはないし、深夜アニメを見せてくる友人がいなければアニメオタクになっていなかったかも知れず、また高校で丸顔の後輩に告白されることがなければ丸顔フェチになることもなかったかもしれない。
偶然によって非必然的に得てしまったような性質を、本当に”私の”アイデンティティと言えるのだろうか。

しかも、そうして他者から複製したパーソナリティやアイデンティティは、当然のことながら本来の自分との相性が悪い。
私は今、自分が他者から複製してきた「外交的で威厳があり堂々とした人間」というパーソナリティから乖離を感じて苦しんでいる。
スリムな白人風ファッションに憧れた少女は、全く似合わないコスプレじみた服装と整形を頑なにやめようとしない。
内に籠った自分を打破したいと思って他人から借用してきた狂気は、やがて正気に返った自分を蝕み、さらなる狂気を必要とし続ける。
他人が自分の中に侵食してくる。

しかし、私は先日までこのことを忘れていたのだ。
自分のことを自分で「外交的で威厳があり堂々とした人間」だと思い込んでいた。
だとすれば、本来の私はどこにいるのだろう。
そんなものはなく、本来の私も複製された私も区別がないとすれば、私の中心はどこにあり、何に立脚して何を感じているのが自分なのだろうか。
望む自分を手に入れるため努力を重ね、その挙句に故郷が分からなくなってしまった。
縞次郎はもうどこかへ消えてしまったのだろうか。
私を助けておくれよ、縞次郎。

  1. 頼むからそう思っていてほしい。さもなければ、私の抱えた内面的矛盾に対して深い哀れみを抱き、可能なら私の手を取って泣いてほしい。 ↩︎
  2. 「そうではないかもしれない」ともう一人の自分は言っている。が、検証不可能なため、一旦そうだと仮定して話を進める。 ↩︎
  3. とはいえ、抽象的なパーソナリティを複製する際にも当然、具体的な個人からの影響は受ける。やはり大町や小田桐に出会っていなければ、今の音楽家としての自分はなかったように思えてならない。 ↩︎

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