今日、平和公園のメタセコイア広場を散歩していたときに見つけた写真を見てほしい。
「犬の放し飼い」と「ごみポイ捨て」の2つが禁止されていることを示す看板。気になるのは絵だ。歪んでいておかしな看板だなと思う。
犬の放し飼い禁止の看板は、禁止されていることに関する推奨例が絵で表現されている。(犬に首輪をつけ、少年がリードを持っている状態)
一方で、ごみポイ捨て禁止の看板は、禁止されていること自体が絵で表現されている。(少年がごみ的な物体をポイ捨てし、犬に当たっている)
2つの禁止事項が、同じレイアウトの看板で示され、絵のテイストも同じなのだが、絵と禁止事項の関係が異なっている。
この歪みを解消するには、犬の放し飼い禁止の看板に犬の放し飼いをしている絵を描くか、ごみポイ捨て禁止の看板にごみをごみ箱に入れている絵を描くことが必要だろう。
どういう経緯でこの看板が生まれたのかを考えてみたいが、そこまでの余裕はないのでここら辺にしたい。こういうおかしなものがあるので自分は世の中のことが好きなのかもしれない。
ところで、今日は妻が主宰の劇団が参加している演劇大会の結果発表の日だった。優勝すると全国大会に行ける。
講評会と結果発表を見てきた。妻らが作り上げた演劇作品は、総合的な上質さを審査員から高く評価された一方で、賛否の分かれる戯曲だったため観客からの評価は不足し優勝することはなかった。結果は納得感のあるものだった。
自分は他者から好まれることや高く評価されることにそこまで興味はないのだけど、やはり大会では勝利するほうが気持ちがいいだろうと思うし、負けることは悔しいだろうと思う。
妻は全国に行きたいと強く思って、頭を悩ませて台本の推敲や演出をしていたところをそばでずっと見ていたので、やり場のない気持ちが自分の中にも湧いてきている。
そういうわけで、平和公園で散歩をしている。仕事が手に付かない。
評価ということについて考えてみると、演劇作品などの鑑賞者による評価観点が多様である表現形式について、複数の立場の評価者の総合的な評価の集計によって競う仕組みというのは難しいものだと思う。たとえば大食い大会はたくさん食べたやつが優勝というシンプルな評価観点しかないので難しくはない。評価基準は量であり、皿などの単位まであるので、大食い大会をジャイアント白田が評価してもキング山本が評価しても結果は変わらない。
とはいえ、絵のデカさや取引回数だけを競ったりすれば面白いかと言われると、ちょっとわからない。
いろいろ考えて最後に話がそれて、最終的に、評価観点が多様である場合は感想が多様になるのではないかなという考えに至った。自分は感想を言うことや聞くこと、感想からさらに話を発展させていくことがけっこう楽しくて、何についても勝手に観点を用意して増やしてしまう。表現形式がどうとか勝敗のシステムだとかはどうでもよくて、ただ感想に興味があるだけなのかもしれない。
さて、結果発表の後の交流会が終わったようで、妻に会ったらさぞ悔しがっているだろうと思ったら、意外にもすっきりと満足した顔をしていたので少し安心した。